その後再び宮城先生と話すことができたのは、4月から異動になったドクターやスタッフの歓迎会の席だった。
その日は私たち研修医も部長命令で全員参加したものの、飲み会の花形は赴任してきたイケメンな若手たち。宮城先生も中心から少し外れたところで中堅看護師達と座っていて、私もなんとなく向かいの席に着いた。
さすがに医者の参加する飲み会だけあって料理もいつもより豪華だったため、ここぞとばかり私は箸を動かしていた。
「お前は、注ぎに行かなくて良いの?」
飲み会も中盤に差し掛かった頃、宮城先生の小さな声が聞こえた。
「ええ、そういうのは嫌いなので」
「へぇ」と、何か言いたそうな顔。遠くの方では研修医仲間達がかいがいしく片付けやビールの追加を出しているし、夏美と翼はお姉さん看護師達や、若手スタッフに囲まれている。
こうしてみると、品の悪い合コンにしか見えないわね。***
2時間ほどで、歓迎会もお開きの時間。
「じゃあね、また明日」
みんな気持ちよさそうに帰って行く。
何人かは2次会に行くみたいだけれど、私が誘われるわけもなく、ありがたく帰らせていただく。「オイ」
「はい」後ろから声がかかり、振り向くと宮城先生だった。
「この間のお礼は?」
ああ、そういえば。
「いいですよ。どこ行きますか?」
「ラーメンは?」 「入るんですか?」 「ああ」私は無理だ。
歓迎会で、食べ過ぎてお腹いっぱい。 それに、「ごめんなさい。私、麺類苦手なんです」
あの、ズルズル吸う感じが好きになれない。
「ふーん、じゃあファミレスにするか?」
「はい」ファミレスなら食べられるものがあるから、大歓迎です。
***なぜか焼き豚丼を頼んだ宮城先生と、ケーキセットを注文した私。
「よく食べられますね」
「何で?」 「結構食べてましたよね?」 「悪いか?」 「いいえ」何なのよ、この威圧感。
普段の温厚さはどこにおいてきた?「先生、二重人格ですか?」
決して悪口のつもりで言ったわけではない。
でも、あまりにも普段と違う。「お前はわかりやすく裏表がないな」
ちょっと意地悪な顔。「ええ。それをモットーに生きてます」
「医者になるくらいだから頭良いんだろうに、バカだな」 「はあ?」 「生き辛いだろう」 「まあ。そうですね」 損な性格だと、私も思っている。だけど、なんだこの人。
こんなにも無遠慮に、ずけずけと私の中の入ってくる。「何で、私には本性を見せてくれるんですか?」
「何でだろうな」 「私が『宮城先生の本性はドsです』ってばらしたら困りませんか?」ハハハ。
おかしそうに笑ってる。「お前、そんなことしないだろう?」
すごい自信だ。
まあ、確かにしないけれど。 でもしないって信じるのは信用しすぎ。「したらどうします?」
「バカ」もー、今日何度目のバカ?。
「お前なんかより俺の方がずっと信頼がある。お前が騒いでも誰も信じないよ」
はー、確かに。
でも、この人もかなり屈折してる。「研修医にしてはいいところに住んでるんだな」ファミレスを出て、宮城先生と2人で家の前まで来た。 きっと翼が帰っているのだろう、家には明かりがついている。「実家な訳、ないよな」色々考えながら探るような言葉を口にする宮城先生。「ええ、違います」フフフ。 良い気分。 さっきまで宮城先生ペースだったのに、今は完全に私のペースだ。「良かったら寄っていきますか?」 「嫌、でも・・・」最初は送るからと言われ流れでここまで来てしまったが、私は宮城先生を驚かせたくなった。「コーヒーくらい入れます」 「うん、じゃあ」やっぱり気にはなるらしい。***鍵を開け玄関の中へ。「ただいま」 「お帰り」入り口で立ち尽くす宮城先生。 すると、何も知らない翼が顔を出した。「遅かったな」次の瞬間、 「ええ」 「あっ」 男性2人の声が重なった。よし、勝った。 私はガッツポーズでもしたいくらい。 一方、驚いて声も出ない宮城先生。「お前・・・」 翼は私を睨んでいる。驚かせてごめん。 私が手を合わせて謝ると、翼は肩を落として見せた。「宮城先生、ごゆっくり。失礼します」 一方的に言って、翼は消えていった。「先生どうぞ。2階です」驚いている宮城先生を、私は部屋に案内した。***「シェアハウスって事か」2階に上がった時点で、先生も状況を理解したらしい。「まあそうです」 「随分と大胆だな。変な噂でも立ったらどうする?」 「別に気にしません」何、嫁入り前の娘がとでも言う気? バカらしい。「で、コーヒーは?」 「ああ、そうでした」好き嫌いの激しい私は、食べられないものが多い。 その分好きなものにはこだわりがあって、コーヒーもその1つ。「ブラックでいいですか?」 「ああ、ありがとう。あれ、豆から挽くのか。こだわってるな」 「ええ、ちょっと待ってくださいね」どうしてもインスタントを飲めない私は、家では豆から引いてコーヒーを入れる。 面倒くさいけれど、やっぱり美味しいから。「うまい」 いつもの診察室で見せる優しい笑顔。「ありがとうございます」「ねえ、これは?」宮城先生は壁一面に作り付けられた本棚にぎっしり並べられた本を手に取る。「私の趣味です」 「へえー」並んでいるのは全部医療物。 小さい頃から、私は医療物
小児科の勤務医となって3ヶ月。 元々研修医としてお世話になっていた病院でもあり、馴染むのに苦労はなかった。 ただ1人、この春赴任してきた小児科部長を除いては・・・本当にあの部長は、今まで出会った上司の中で最悪。 とにかく、私に対する敵対心が半端ない。 そりゃあ、私に問題がないとは言わないけれど・・・「紅羽先生、顔が怖いですよ」外来看護師の沙樹ちゃんが「ほら笑って」と、笑顔を向ける。 はいはい。 今日の私は外来の担当で病棟にいる部長には会わなくてもいいわけだから、ノビノビやりましょう。「じゃあ、始めましょう」 「はい」今日も患者であふれかえる小児科外来から、私の1日が始まった。***「先生、次呼んでいいですか?」 「はい」答えながら、パソコンに向かい必死にカルテ入力をする。 こう見えて、医者って結構激務だ。 診察、カルテ記載、カンファレンスを開いて治療計画を検討したり診断書の作成もして、その間で勉強だってしなくては今の医療についてはいけない。 それに、最近の親はクレイマーも多いから気をつけないとすぐに文句を言ってくる。 特に私みたいにニコニコしない医者には風当たりも強い。 そう言えば2年前、小児科医になると決めた私に翼は驚いた顔をした。 それだけ意外な選択だったのだろう。 けれど公は、「お前らしい」と言ってくれた。 どちらにしても、自分で決めた以上はしんどくても頑張るしかないんだ。***「先生、今夜熱がでなかったら、明日から保育園に行けますよね?」私よりも年下に見える母親が、探るように聞いてきた。「え、明日診察に来ていただいて、良ければ登園OKを出しますが、すでに4日も熱が続いていて肺炎になりかけているんです。本当だったら入院して点滴治療をするところなんですよ」患者は4歳の女の子で、風邪が長引いていてここ数日毎日受診している。 薬のお陰で少しづつ回復してきていて、今朝はもう熱もなくなった。 でも本当ならすでに入院をしていてもいい経過で、どうしても無理だって言うから外来で治療しているのに・・・「明日は、どうしても休めないんです」母親は、とうとう泣き出してしまった。 こういうことも今時珍しくもない。 私はすぐに院内のケースワーカーを呼び、市がやっているサポートセンターを紹介した。「私は医者だから、お子
1日の終わり。 あーぁ、今日も忙しかったと1人ぼやきながら、私は借りている駐車場へと向かっていた。日が長くなり、まだ周囲は明るい。 今日は公が当直だから、1人でゆっくりビールでも飲もうなんて考えながら、私は駐車場に近づいて行った。そして、車が見えるところまで来たとき、足が止まった。『山形紅羽』 真っ赤な字で、ただ名前だけ書かれた紙。うわ、気持ち悪い。 一体誰だろう。 個人で借りている駐車場だから、病院の駐車場ほど管理も厳重ではない。 もしかして、翼のファン? いや、まさかね。 さすがにそこまでは・・・でも、なくはない。 とにかく帰ろう。 帰って翼に相談しよう。 紙をはがし、タオルでフロントガラスを拭くと、私は自宅に向かった。***警察に通報しようかとも考えたけれど、思い止まった。 色々うるさく聞かれるのは好きじゃないし、嫌がらせメールや無言電話も以前からあった。 翼のファンに呼び出されたことだって、1度や2度じゃない。そんなときでも、私はただ黙っている。 「あんた何様よ」 「翼くんはあんたなんか好きじゃないのよ」 「どっか行っちゃってよ」 中には手を上げそうな勢いで掴みかかってくる子までいるが、私は無反応を通した。 恋人でない以上、何を言われても平気だった。 だから、今更こんな嫌がらせに負けたりしない。私はこんな性格だから、イジメには慣れている。 小学校の時から、時々イジメられた。 さすがに自分のかわいくない性格を変えようとした時期もあった。 周りのみんなに負けないように精一杯笑顔を作ったり、興味もないくせに話を合わせてみたり、似合いもしないのにおそろいの髪型にしてみたりと自分なりに努力はした。 でも、長くは続かなかった。 嘘をついて自分をごまかすことが苦しくなって、いつの間にか1人になっていた。 無視されるのも、物を隠されるのも、囲まれて小突かれることだって経験すみ。 張り紙一
怪我自体は比較的軽症で、7針ほど縫う切創。 翼が自分で縫合してくれた。「旦那は呼ばなくていいのか?」 処置室で2人になったタイミングで聞かれた。旦那とは公のことで、翼はいつもそう呼ぶ、「知らせなくていいわ。心配かけるだけだから」怪我もたいしたことなかったし、後で話せば十分だろう。「本当にそれでいいのか?」不満そうな翼の顔。 だからといって無理強いしないのが、翼らしい。 ***「何があった?」いつも優しい救命部長が真剣な顔で聞いてくる。「自転車に乗った人が後ろから近づいてきて、いきなり切りつけられました」 「相手は見たのか」 「いいえ。いきなりで顔を見ることはできませんでした」 「そうか」 そう言って、ジーッと私の顔を見る部長。「襲われるような心当たりはあるのか?」 今度は翼にも視線を送る。翼の上司である部長は、私と翼が付き合っていると思っている。 そう思わせているのは私たちだけれど、騙しているような気持ちは消えない。「紅羽、最近何かあったのか?」 「うん。まあ・・・」翼に聞かれれば嘘はつけず、曖昧な返事しかできない。「言ってみなさい」しかし、怖い顔をした部長にも言われ、話すしかなくなった。。「実は・・・」私は車に嫌がらせのビラが貼ってあったことを告白した。「そういうことは早く言えよ」翼は怒り出し、部長に「警察を呼ぶぞ」と言われ、頷くしかない。***警察は色々と事情を聞き、 1時間ほどで帰っていった。その後翼が付き添っていると、診察室がノックされ、公が顔を出した。「大丈夫?」周りにいるスタッフを気にしてか、とっても優しそうな顔。しかし、呼ばれてもいない公が顔を出せば、 「先生どうしたんですか?」 と周りにいたスタッフに聞かれしまう。「うん。たまたま救急に呼ばれたんだ。そうしたら山形先生が運ばれたって聞いてね、お見舞い」相変わらずいい笑顔。あたしじゃなくて、公の方が絶対小児科医に向いているわ。「俺、医局覗いてくるわ」気を遣ったのか翼が出て行き、いつの間にか公と2人になっていた。「大丈夫か?」 「うん」 「なんですぐに知らせないんだ?」 「だって、心配かけると思ったし」 「その油断がこの結果を招いたんだろう。しっかりしろ、何かあってからでは遅いんだぞ」やっぱり叱られた。「ご
家に帰りるとやはり傷口が痛み出し、翼が処方した鎮痛剤を飲んでなんとか朝を迎えた。 朝には公が来てくれた。「はい」差し出されたのは、病院近くにあるベーカリーのパン。「ありがとう」当直明けの公は、この後朝からの勤務が待っている。 時間がないのにわざわざ来てくれたことが嬉しい。「あまりゆっくりはできないんだ」 「うん」コーヒーを入れ、 2人でパンをつまんだ。「お前は何でも1人で抱えすぎだ」 「ごめん」 心配してくれているのが分って、素直に口をでた。「どうして相談しないんだよ」 「まさか、怪我するとは思っていなかったし。大丈夫だと思って」 「大丈夫じゃなかったな」公の呆れた顔。「だから、ごめん」2人でいるときの公は、いつもとっても俺様だ。 厳しいことを言われることだって珍しくないけれど、嫌な気分ではない。 それは、私だけが知る公だから。フフフ。「こら、怒られてるのに笑うな」公は怒っているけれど、そんな公がとっても好き。***昼前には母さんからも電話があった。「警察から連絡があったのよ」 「あ、うん」 「大丈夫なの?」 「・・・心配かけてごめん」そんな言葉しか出てこない。「父さんがね、一度帰ってきなさいって」 「うん」そういえば最近顔出していない。「本当に大丈夫なのね」お母さんは心配そうに何度も聞いてくる。「大丈夫、元気だから。近いうちに帰る。父さんにもそう伝えて」 「わかったわ」無理をしてはダメよと繰り返し、母さんの電話は切れた。 私は親不孝な娘だ。 こんなに大切に育ててもらったのに、恩返しもできないどころか、いまだに心配をかけ続けている。***私の実の父は私が生まれる前
「消毒に来たぞ」階段から翼の声がする。ドアを開けると、消毒とガーゼと包帯を持った翼が立っていた。「大丈夫だよ。1人で」 「できないだろ。利き腕だぞ」アハ、そうでした。私は、おとなしく右腕を差し出した。「痛っ」まだ消毒がしみる。「ねえ、優しくしてよ」「少し我慢しろ」わざわざ手当てをしに来てくれているのにどんな言いぐさだと思うけれど、翼の前では本音が出てしまうし、翼は翼で病院で見せるような優しさはない。 でも、これが気兼ねなくいられる理由だ。「なあ」ん? 呼ばれて顔を上げると、真面目な顔をした翼がいた。「何よ」 「犯人、捕まったらしい」へ?「随分早いのね」 「20歳の浪人生だって」 「へえー」翼の話によると、犯人は近くに住む2浪中の男の子。 医学部受験を目指していて、そのストレスから衝動的に犯行に及んだらしい。「お前、病院の袋に資料入れて持ち歩いていただろう?」 「うん」ちょうどいいサイズだったし、病院にはいくらでもあるし。 便利に使っていた。「それを見て、病院のスタッフだと思ったんだと」ふーん。 まあ、とんだ逆恨みって事ね。 でも、待って「じゃあ、あの張り紙は?」 「別人らしい」そんな・・・「とにかく、もうしばらくはおとなしくしているんだな」 「うん。痛っ」翼がピンセットで縫合した部分を触るから、つい声が出てしまった。「何かあれば、すぐに言うんだぞ」 「分ってるって」 「本当か?」 翼は怪しいなって目をしてる。ったく、どこまで信用がないのよ。「なあ」 ちょっと真面目な顔をした翼。 「何よ」 「もし、俺のファンだったらごめん」
事件から1日休んで、私は仕事に戻った。犯人が捕まったとは言えきっと大騒ぎになっているだろうと思っていたけれど、案外そうでもなくて逆に驚いたし、救命部長が箝口令を敷いたらしいと聞かされてさすがと納得もした。 それに対してうちの部長はただ文句を言い続けている。「人騒がせな奴だなあ。大体、病院の備品なんてこれ見よがしに持ってるからこんなことになるんだよ。昨日休んだ分、今日は働いてください」 「はい」 できるだけ表情を崩さず、返事だけする。この人、なんとかならないのかしら。 小児科医としては優秀らしいけれど、人間としては・・・最悪。 特に私には敵対心丸出しで、優しい救命部長とは大違い。 どうせなら部長が刺されれば良かったのに。「紅羽、顔が怖いわよ。子供が泣くわ」 隣にいた夏美の呟き。フン。 怒りたくもなるわよ。 今だって、昨日休んだペナルティーって口実で週末の勤務を入れようとしている。「そんな顔するから、余計に言われるのよ」 「分ってます」 「じゃあ、直しなさい」 うっ。 それができないから困っているんじゃない。ブー、ブー、ブー。鳴り響くホットライン。「はい。NICUです。はい。はい。わかりました、向かいます」 どうやら、ドクターカーの出動要請だ。***「私行きます」 この場から逃出したくて、手を上げた。「山形先生はいい。ケガしてたんじゃあ仕事にならん」 「大丈夫です。行けます」さらに声を大きくしてみたが、部長は取り合ってもくれない。 「山形先生は待機。山田先生向かってください」結局、先輩ドクターが行くことになった。 本当に嫌な部長。 きっと春の歓迎会で手を握ろうとしたところを『セクハラで訴えますよ』なんて言ったからだろうな。 お酒の席なんだからって、その後みんなにも注意されたし。 はーぁ、本当に困ったものだわ。
翌朝。「オーイ、朝飯作ったから来いよ」階段の下から響く翼の声に誘われ1階のリビングへ降りた。「お邪魔します」うわー、美味しそうなフレンチトースト。「どうぞ」 「いただきます」うーん美味しい。 翼が作る料理って、本当に美味しい。 別に料理上手ってわけでもないのに、味や食感、火の通し加減がちょうどいい。 私が同じように作ってもどこか違うのは何でだろうって、よく考える。 そこでたどり着いた結論は、翼ってきっと舌が優秀なんだ。 それは才能とかじゃなくて、小さい頃から本当に美味しいものを食べてきたって事。 その料理に対する理想型を知っているから、それに近づけられる。 だから、翼の料理は美味しいのだ。「昨日、旦那早く帰ったな」 「あ、うん」一緒に住んでいれば当然気が付くことだろうから、今更誤魔化してもしょうがない。「呼び出し?」 「違う。喧嘩した」 「お前がまたわがまま言ったんだろう」やっぱりそう思うのか。 まあ、事実だけれど。ん? 翼がジッと私を見つめている。「何よ」 「・・・別に」 「はっきり言いなさい。翼らしくないわよ」何か言いたいって、顔に書いてあるのに。「お前、何も聞いてないのか?」 「だから、何を」 つい、声が大きくなった。「紅羽」 哀れむような翼の視線。な、何なのよ。「異動の話が、出てる」え?「それって・・・・公?」 「ああ」うそ、嘘よ。 私、何も、聞いてない。***「フフフ。私ってよっぽど性悪だと思われているのかなあ」だから、何も言わないのかなあ?と自虐的に笑ってみた。「裏表がなくてわかりやすい性格はお前らしいけど、人間そんなの真っ直ぐは生きられないんだ」そんなこと、
ガチャ。すっかり寝てしまった紅羽を抱えて玄関を開けると、福井翼が顔を出した。「おかえりなさい」「ただいま」俺の家でもないのに、自然と口を出た。「寝たんですか?」「ああ」「先生も大変ですね」「まあな」多感な思春期を他人の家ですごしたせいで、俺は外面のいい人間になってしまった。いつ笑顔でニコニコしているから年寄りには好かれるし、愛想が良ければ仕事もやりやすい。そんな宮城公を自分で作り上げた。しかし、こいつに関わる時でだけ本性が出てしまうんだ。よほど疲れていたのか、部屋まで運びベットに寝かせても紅羽は起きなかった。その後キッチンに入り、冷蔵庫を空けてみると、中身は水と、ビールと、卵が数個だけ。「相変わらずの食生活か」とてもじゃないが、妊婦の、いや女性の家とは思えない。***「荷物、置きますね」玄関に置いたままだった荷物を、翼が運んできた。「ああ、すまないな。ビール飲むか?」「ええ、いただきます」ダイニングに座り、つまみもなしでビールを空けた。「寝ましたか?」「ああ。人の気も知らずに夢の中だ」「食べれてなかったし、眠れてなかったし、最近辛そうでしたから」ふーん。こいつは俺よりも紅羽のことを知ってる訳か。「悪いが、気にかけてやってくれ」色々と思う所はあるが、やはり頼れるのはこいつだけだ。「わかりました。で、どうする気ですか?」翼の探るような視線。「それは、あいつが決めることだ」人の言うことを素直に聞く女じゃない。「先生はどうしたいんですか?」それでも翼は食い下がる。「俺は・・・ポケットにしまっておきたい」「はあ?」やはり、唖然とされた。しかし、これが本心だ。できることならこのまま連れて帰りたいが、できない
送っていく車の中で、紅羽は眠ってしまった。妊娠するとホルモンのバランスが変わって眠たくなることもあるらしいし、つわりも体調の変化も人それぞれ。症状も、一概にこうだと言えるものはない。まあ、命を1つはぐくもうと言うんだからそれなりに体の負担は避けられないのだろう。それにしても、どうしたものだか。こいつが母親になるなんて、想像もできない。いつも真っ直ぐで、正直で、それでいて不器用で、心配で目を離すことができなかった。最初は妹を見るように見ていたのに、いつの間にか手を出していた。近付けば近づくほど彼女の側を離れられなくなって、お互いを恋人と認識するようになった。二人の関係を隠したつもりはない。一緒に手をつなぎ、堂々と街を歩きたかった。でも、余計なことを口にしない紅羽にあわせているうちに、秘密の交際のようになってしまった。それが・・・子供ができるなんて。「うぅんー」助手席から聞こえてくる紅羽の声に幸せを感じる。こんな時間をずっと過ごせたら、いいだろうなあ。「かわいい顔して、強情な奴だ」***俺の両親はごく普通の会社員と専業主婦だった。小さなアパートに4人暮らしで、俺の上に姉がいる。体の弱い母は働きに出ることもできず、決して裕福ではなかった。父は寡黙で真面目な仕事人間。母は、元々金持ちの娘だったらしい。駆け落ちして一緒になったと大きくなってから聞かされた。そんな母も、俺が13歳、姉貴が15歳の時に病気で死んでしまった。母の訃報を聞いて駆けつけた祖父は「お前が娘を殺したんだ」と父に罵声を浴びせた。葬儀の後、俺と姉貴は母の実家に連れて行かれたが、父は止めなかった。一生懸命頑張りすぎた父は、母が亡くなる前から心を壊してしまっていて、病院を出たり入ったりの暮らしだった。そんな父に子供を育てられるはずもなく、どうしようもない選択だったのだろう。3年後、父は病院で亡くなった。金持ちの家とは言えすで
翌朝、渋滞を避けて早めに家を出た。 この体で長いドライブをすることに不安はあったけれど、行かなくてはいけない気がして車を走らせた。 以前来たときは綺麗な緑に覆われていたのに、今は枯れ葉が舞っている。 なんだか寂しいわねと少し感傷的な気分になりながら、私は診療所への道を進んだ。 「こんにちは」まだ診察前なのは分っていて、玄関から声をかける。「はーい」出てきた看護師の、どなたですかと怪しむような視線。「私、山形と言います。公、いえ、宮城先生はいらっしゃいますか?」 「先生ー」看護師に呼ばれ、公が奧の診察室から出てきた。「え、お前」やっぱり、驚かれた。 何も言わずにやって来たのだから、当然だろう。「お知り合いですか?」 「同僚です」看護師に聞かれても、私はそう答えるしかなかった。***公が診察の間は、院長室で休ませてもらった。 環境が変わって気が紛れたのか、今日は吐き気がしない。 来客用のソファーにもたれかかりながら、時々聞こえる公の声に耳を澄ませた。「どうかした?」昼前になり戻ってきた公が、なぜか不機嫌な私に渋い顔をする。「別に。どうもしないけど・・・」 「話があるんだろ」こんな平日に前触れもなく訪れれば、何かあったと思うに決まっている。「実は・・・赤ちゃんができたの」私は、核心のみをはっきりと伝えた。「そうか」驚く様子も見せず、公は私をそっと抱きしめた。「私、迷ってるの」正直、生んで育てる自信なんてない。「俺は、どんな結論も受け入れる」男ってずるい。 決められないからここにいるのに・・・「妊娠も出産も私ばっかり。私だって、医師としてのキャリアを積みたいのに」公の前で歯止めがきかなくなって、甘えが出てしまった。
「うっ、気持ち悪い」今日も朝から吐き気に襲われる。ペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出し一口含んだが、やはり吐き気は治まらない。ここのところずーっとこの調子で、夏美にも「いい加減に受診しなさい」と毎日言われている。マズイなあ。できれば休みたくないのに、この状態では仕事にならない。「おーい、紅羽。大丈夫か?」階段の下から翼の声がした途端、私は座り込んでしまった。ダダダッと階段を上がる足音。トントン。「入るぞ」返事を待つことなく入ってきた翼が、私を見下ろす。「気持ち悪い」小学校の遠足でバスに酔ったときより酷くて、2日酔いの10倍は辛い。「そんな所にいたら良くならないだろう」冷蔵庫の前に座り込んだ私を、翼が手を差し出して抱えようとする。抵抗する気力もない私は、膝とエチケット袋を抱えたまま翼に寄りかかった。「今日の勤務は無理だな」「・・・うん」この状態では仕事にならないと私にだって分っている。でも・・・先日出た辞令で、私は異動は決まっている。すでに公表になっていて、1か月後には隣町の市立病院へ移らなくてはいけない。異動先も救急外来を持つ総合病院だから、左遷ってわけではない。早いか遅いかの違いで、夏美だって翼だって異動はあるし、いつまでも同じ現場にいられる医者なんてごく一部でしかない。それは分ってはいるけれど・・・***「離島に飛ばされたわけでも、山の中に送り込まれたわけでもないだろう。そんなに落ち込むな」「分ってるわよっ」翼に言われなくたって、転勤は勤務医の宿命なのだから諦めるしかないと頭では理解してる。「仕方ないから、今日は休め」動けない私が仕事に行けるはずもないが、やはり休みたくはない。「今休んだら、駄々をこねているみたいだわ」「言いたい奴には言わせておけ」「・・・うん」
12月。毎年恒例小児科の忘年会は、病院近くのイタリアンレストランで行われた。「今年は随分おしゃれね」隣の席に座った夏美につぶやいてしまった。今まで参加した飲み会と言えば、居酒屋や中華や奮発してお寿司って言うのがほとんどだった。こんな、イタリアンレストランを貸し切っての忘年会なんて始めてだ。「部長のアイデアらしいわ。参加人数も40人を超えているし、若いスタッフも多いから、いいチョイスだと思うわよ」「へー、部長がぁ」確かにおしゃれだから、若者はうれしいよね。「山形先生、食べてますか?偏食かなんだか知らないけれど、しっかり食べて明日からも働いてくださいよ」遠くの席から大きな声で話す部長。フン、分ってます。私の食欲不振は悪化の一途をたどり、最近ではめまいを起こすようになった。自分でもまずいなって思っているのだが、忙しくて受診する暇がない。「先生どうぞ」師長が赤ワインの入ったグラスを差し出した。え?「部長が山形先生にって」思わず見つめると、小さな声で囁いた。「先生、しっかり食べて飲んでください」またまた部長の大きな声。「はい。いただきます」私は立ち上がって部長を見ると、小さく頭を下げた。クソッ。小児科部長め。私の事が気に入らないなら、かまわずに放っておいてくれればいいのに。わざわざ話しかけてくるから、時々私のことが好きなのかしらと誤解しそうになる。まあ、そうでないのは間違いないけれどね。「紅羽、顔が怖い」グラスのワインを持ったままの私に夏美の突っ込み。分っていても笑って受け流せない私は、静かにグラスを置いた。部長からのワインだから飲まないのではない。私は本当に体調が悪いのだ。そのうちに、あちこちのテーブルで酔っ払いが大量発生しだした。***「もー、部長。ダメですよ」
秋。私も、小児科医として働くことに慣れた。相変わらず部長には嫌われているけれど、上手にかわせるようにもなってきた。「あれ、山形先生また痩せたんじゃありませんか?」「そ、そんなことないですよ」病棟師長の鋭い突っ込みに否定してはみたものの、さすがによく見てる。「体調管理万全にお願いしますね。もうすぐインフルの季節なんですから」「あー、はい」毎年、寒くなると小児科は目が回るほど忙しくなる。インフルエンザの患者や、肺炎、ぜんそくの患者で病棟はいっぱいになってしまうから、そんなときに小児科医が体調不良なんて言ってはいられない。「紅羽、本当に大丈夫なの?」「うん、大丈夫。ありがとう」夏美まで顔をのぞき込むから、一応笑って見せたけれど、本当はちょっとまいっている。実は、一昨日の夜公がうちにやって来た。平日なのに珍しいなあと思っていると、「辞表を出した」と何の前触れもなく告げられた。それに対して、私はただ頷くことしかできなかった。今の生活がいつまでも続くとは思っていなかった。いつかは考えなくてはいけないことだと思っていた。でも、こんなに早く・・・「後任もすぐには見つからないだろうから、春までは嘱託医としてこれまで通り勤務することになると思う」「そうなの」平日は診療所で勤務して週末はこっちに帰って来るという生活に、当面変化はないってことだ。きっと、家に泊っていくのだろう。「春からどうするの?」私は思い切って聞いてみた。「今、考えてる」「そう」それ以上は何も言えなかった。公のこれからの人生に私の意見は入らないんですか?って言えたらいいのにと思いながらも、かわい気のない私には無理だ。***夜、私たちは同じベットの上で肌を合わせた。お互いに寝付けないのは気づいていた。「朝になったら帰るの?」「いや、診療所は無理を言って休診にしてきたから
夕方。今日は部長がいないお陰で定時で上がることができた。翼のことが気がかりだけど、昨夜眠っていない私はとにかく横になりたくて寄り道もせずに帰ってきた。「お帰り」「ただいま。早かったのね」先に帰っていた公に声をかけられ、驚いた。それに、すごく良い匂い。「肉じゃが作ったの?」カバンも置かずに鍋の中をのぞき込んだ。「ああ。サンマの塩焼きとキュウリの酢の物もあるぞ」「すごい和食ね」ククク。と意味ありげに私を見る公。「何?」「どうせ、俺がいないと飯食ってないだろう?」「え、そんなこと・・・」ないよとは言えず、言葉に詰まった。確かに、公が側にいなくなってから私の食生活は完全に乱れた。朝は菓子パンかコーヒーのみ。お昼はサラダとサンドイッチではなく、忙しくてチョコやクッキーをつまんで終わることが多い。そして、夜はスーパーで買った総菜で1人チューハイを飲むという不健康きわまりない生活。当然、仕事に出ても体調不良であまり動けない。こんな生活は良くないとは分っていても、1人だと何もする気にならないのだ。「今日はたらふく飯を食わせてやる。もうすぐ翼も帰ってくるから、一緒に食うぞ」私は思わず公を見上げた。今日一日うちの病院で勤務した公は、翼の噂を聞いたはずだ。だからこそ、こうして夕食の準備をしてくれている。それがいかにも公らしい。私は、ありがとうって言葉を必死に飲み込んだ。***「お疲れ」「お疲れ様」「いただきます」チーンッ。とグラスが鳴って、3人の夕食。「旨そうですね」翼がサンマに箸をつける。「ああ、いつも山の中にいるからな、魚に餓えている」真顔で言う公だけれど、これは冗談。サンマなんてどこででも買えるから。「どんなところに住んでいるんですか」
「うー、気持ち悪い」胃がムカムカするのを我慢しながら、結局一睡もすることなく私は出勤した。同じだけ飲んだはずの翼は全くいつもと変わらない顔をしていて、つきあってあげた私としてはなんだか悔しい。「山形先生、顔が怖ーい」病棟ですれ違った子供にまで言われてしまうなんて、まずいな。「2日酔い?部長が出張で良かったわね」偶然出会った夏美の嫌み。完全に部長に目をつけられてしまった私は、小児科の中では問題児扱いだ。本当に、今日部長がいたら大変だっただろうな。それだけでも幸運と思わなければいけないだろう。「でも、翼は紅羽よりももっとヤバそうよ」「えっ?」夏美の言葉に、顔を上げた。正直、今日は休むかもって思っていたのに、翼は出勤していった。今の状況は翼にとって針のむしろのはずで、きっとやり難いだろうなと想像できる。何とか早急に騒ぎが収まってくれれば良いけれど。***その日の夕方、私はたまたま救急外来に呼ばれた。時刻は午後6時。ちょうど開業医の受付が終わる時間とあって、かなりの患者で混雑している。「山形先生、お願いします」救急外来に入るとすぐに看護師から声がかかり、熱で元気のない赤ちゃんの診察をした。「お母さん、ミルクは飲めますか?」「いえ、あまり」「そうですか、水分は?」「飲めています」「じゃあ、無理せずに少しずつ水分を取らせてあげてください。今夜分の薬と座薬を出しますから明日外来に来ていただけますか?」「はい」何か変わったことがあれば救急を受診するようにと念を押し、私は赤ちゃんの元を離れた。あれ?その時、周囲の様子がおかしいことに気が付いた。みんなが遠巻きに翼を見ている。「なあ、検査急いでよ」「待ってください。今、準備します」不機嫌丸出しの翼に、若い放射線技師は慌てている。「だから、急いでっ」
「すみません、福井翼の・・・友人です」私は交番に駆け込んだ。部屋の奥でパイプ椅子に座っている翼。顔には擦り傷があり、唇の端から血がにじんでいる。「あの・・喧嘩をしたって、本当ですか?」どうしても信じられなくて、対応に出た警官に確認してしまった。「ええ、きっかけは些細なことのようです。すれ違いざまに肩がぶつかったとかぶつからなかったとかの。ただ、3対1の派手な乱闘だったようで、近くの店から通報がありました」「それは、ご迷惑をおかけしました」友人として引き取りに来た以上頭を下げるしかない。「いえ、相手は逃げてしまっていますし、こちらとしても大事にする気はないんですが・・・怪我をしておられるんじゃないかと心配でして」「はあ」「ご本人が、『自分は医者だ。怪我はないから大丈夫だ』と救急車の要請を拒否されたものですから・・・」なるほど。それで私が呼ばれたのか。「大丈夫です。彼は救命医ですし、私も医者です。何かあれば責任持って受診させますから」「そうですか」訝しげに見ていた警官もホッと表情を緩ませた。その後、私は身元引受人の手続きをして、翼と二人で警察を後にした。***その足で向かったのは、学生時代から通った行きつけのバー。初めて見る辛そうな翼を一人にすることができなくて連れ出した。こうして外にいる方が気がまぎれるのではと勝手に思ったのだ。「どうしたの?らしくないでしょ」「分ってる」その言い方が子供みたいで、つい笑ってしまう。優等生とは言わないけれど、いつもなんでもそつなくこなす翼の弱い部分を初めて見た気がした。その後二人でかなりのグラスを空けたのだが、今日に限っては不思議なくらい酔えなくて、気がつけば外が明るくなっていた。「そろそろ、帰ろう」「そうだな」2人とも勤務がある以上一旦帰って仮眠くらいは取らないといけないだろう。***すでに明るく