その後再び宮城先生と話すことができたのは、4月から異動になったドクターやスタッフの歓迎会の席だった。
その日は私たち研修医も部長命令で全員参加したものの、飲み会の花形は赴任してきたイケメンな若手たち。宮城先生も中心から少し外れたところで中堅看護師達と座っていて、私もなんとなく向かいの席に着いた。
さすがに医者の参加する飲み会だけあって料理もいつもより豪華だったため、ここぞとばかり私は箸を動かしていた。
「お前は、注ぎに行かなくて良いの?」
飲み会も中盤に差し掛かった頃、宮城先生の小さな声が聞こえた。
「ええ、そういうのは嫌いなので」
「へぇ」と、何か言いたそうな顔。遠くの方では研修医仲間達がかいがいしく片付けやビールの追加を出しているし、夏美と翼はお姉さん看護師達や、若手スタッフに囲まれている。
こうしてみると、品の悪い合コンにしか見えないわね。***
2時間ほどで、歓迎会もお開きの時間。
「じゃあね、また明日」
みんな気持ちよさそうに帰って行く。
何人かは2次会に行くみたいだけれど、私が誘われるわけもなく、ありがたく帰らせていただく。「オイ」
「はい」後ろから声がかかり、振り向くと宮城先生だった。
「この間のお礼は?」
ああ、そういえば。
「いいですよ。どこ行きますか?」
「ラーメンは?」 「入るんですか?」 「ああ」私は無理だ。
歓迎会で、食べ過ぎてお腹いっぱい。 それに、「ごめんなさい。私、麺類苦手なんです」
あの、ズルズル吸う感じが好きになれない。
「ふーん、じゃあファミレスにするか?」
「はい」ファミレスなら食べられるものがあるから、大歓迎です。
***なぜか焼き豚丼を頼んだ宮城先生と、ケーキセットを注文した私。
「よく食べられますね」
「何で?」 「結構食べてましたよね?」 「悪いか?」 「いいえ」何なのよ、この威圧感。
普段の温厚さはどこにおいてきた?「先生、二重人格ですか?」
決して悪口のつもりで言ったわけではない。
でも、あまりにも普段と違う。「お前はわかりやすく裏表がないな」
ちょっと意地悪な顔。「ええ。それをモットーに生きてます」
「医者になるくらいだから頭良いんだろうに、バカだな」 「はあ?」 「生き辛いだろう」 「まあ。そうですね」 損な性格だと、私も思っている。だけど、なんだこの人。
こんなにも無遠慮に、ずけずけと私の中の入ってくる。「何で、私には本性を見せてくれるんですか?」
「何でだろうな」 「私が『宮城先生の本性はドsです』ってばらしたら困りませんか?」ハハハ。
おかしそうに笑ってる。「お前、そんなことしないだろう?」
すごい自信だ。
まあ、確かにしないけれど。 でもしないって信じるのは信用しすぎ。「したらどうします?」
「バカ」もー、今日何度目のバカ?。
「お前なんかより俺の方がずっと信頼がある。お前が騒いでも誰も信じないよ」
はー、確かに。
でも、この人もかなり屈折してる。6月の終わり。 梅雨明けの晴天の日に、私は出産した。 元気な男の子は、勇大(ゆうだい)。 名前は、公がつけた。 いい名だと父さんも喜んでいる。そして気づいた。 公ってとっても過保護なのだ。今日だって、 「だから、もう熱は下がってきてるんだから、このまま家で寝かせてやりましょうよ」 「そんなこと言って何かあったらどうするんだ?」 「だから・・・」 会話は完全に平行線をたどっている。今、3日前から風邪気味の勇大の熱が下がらないのを心配した公が、救急に連れて行くと騒いでいる。「だから、昨日小児科でもらった薬もまだあるし、熱だって上がってきているわけじゃないし、胸の音も綺麗なの。今夜は様子を見ましょうよ」 「ダメだ。何かあってからでは遅い」 「でも・・・」 この人本当に医者なんだろうかと、見つめてしまった。「ねえ、今救急に行っても診るのは救命医なのよ。仮に専門医を呼ぼうって話になったとして、呼ばれて出てくるのは小児科医なの。その小児科の私がいうんだから、信じてよ」 「それでも・・・心配なんだ」まるで小動物みたいな真っ直ぐな瞳で見られると、もう私の負け。「わかりました。そんなに言うなら行きましょう」私と公と勇大は救急外来へと向かうこととなった。***着いたのは、公の勤務先であり私の元の職場。 当然出てきたのは、元同居人。「元気そうだけれどなあ。小児科呼ぶか?」 やっぱり、翼が呆れてる。「呼んでくれ。もう3日も熱が下がらないんだ」記録してきたメモを見ながら細かく病状を説明する公。「紅羽が診れば良いと思うけれどなあ」ブツブツ言いながら、翼が小児科を呼んでくれた。 本当に、私もそう思います。 これで研修医とか出てきたら、自分で検査と薬のオーダーをしてやる。 10分後。 降りてきたのが小児科部長だった。 私と公を交互に見て、笑っている。「入院するか?」 「はあ?」 「熱も続いてるし、入院して点滴で一気に治すのも良いぞ」 「えー」 思わず、口を尖らせてしまった。だって、まだ入院するほどの状態ではないでしょう。しかし、公はすっかりその気のようだ。「お願いします」こうなったら誰も公を止められない。 結局、勤務していた病院での入院生活となった。***元勤務先への入院なんて、もう恥ずかしさしかない。
それから数か月後の冬の終わり。私は、両親に祝福されて結婚した。ささやかだけれど、温かな結婚式。仲人は公の上司である内科部長。小児科部長も上司として参列し、挨拶した。それは私にとっても衝撃的な内容だった。「宮城くん、紅羽くん、結婚おめでとう。優秀な君たちのことだからきっと良い家庭を築いてくれることと、信じています。どうか、幸せになってください。僕は今日、新婦の上司としてここに呼んでいただきましたが・・・それだけではありません。実は、僕は生まれる前から紅羽くんのことを知っています。君のお父さんとは大学の同期であり友人でした。でも、新人の僕たちは友人を気遣うだけの余裕がなくて、助けてやれなかった。真面目で、嘘がつけなくて、いつも一生懸命だった君のお父さんは、生まれてくる子供のためにとそれまで以上に働いていた。危険だなとみんな思っていても、助けてやれなかった。すまなかった」一気に言うと、部長は深々と頭を下げた。そして静寂となった会場で静かに続ける。「君はお父さんにそっくりだ。だから危なっかしくて、つい辛く当たってしまった。申し訳ない。どうかこれからは少し肩の力を抜いて、幸せになってください。ご両親の分まで」声を詰まらせながらの挨拶に、みんなが泣いた。目の前の小児科部長のことは今でも好きにはなれない。もっと誠実で、真面目で、人当たりのいい医者はたくさんいる。でも、今日の言葉で、少しだけ見方が変わった。私にとって父の死が運命だったように、部長や父の同期達にとっても悲劇だったんだ。社会の現実を知り、医者として生き方を変えてしまう出来事だったんだと思う。だから、もう部長を恨む気はない。公に与えられる愛情が、憎しみや悲しみを浄化させてくれるように感じるから、もういいと心の底から思える。私は多くの人の祝福に包まれて、本当に幸せだった。***結婚式から半年。私は赴任先に勤務することなく産休に入った。公の僻地勤務は週に3日だけとなり、嘱託医として総合病院での勤務が続いている。一方私は、のんびり
「紅羽と宮城先生がねえ・・」お見舞いに来た夏美はまだ信じられないって顔をしている。「ごめん、黙っていて」「いいよ。でも・・・信じられない」さっきからそればっかりだ。「あれ来てたんだ」買い物から戻ってきた降公が、チラッと夏美を見てから私が頼んだプリンを差し出す。「お邪魔してます」夏美は不思議そうに、私と公を交互に見ている。「何してるんだ、ちゃんと寝てろよ」いつの間にかベットを出てソファーに座っている私に、公が注意する。「だって、産科の先生ももう大丈夫だって」「それでも、用心しろ」「動かずにずっと寝ていろって言うの?」「ああ」「はあ?」最近の公は、時々暴君に見える。「言うことを聞け。産科の先生に1ヶ月自宅安静の診断書出させたから」「え?そんなことすれば、仕事が・・・」ただでさえ赴任先への出勤が伸びているのに・・・「大丈夫、いざとなれば俺がもらってやる」途端に、私の顔が赤くなった。一方夏美は、お腹を抱えて笑ってる。「もーやめて。宮城先生のイメージが崩れていく」本当にその通り。最近は公の二重人格がバレバレだから。***あっという間に、公と私の噂は病院内に広まった。しかし不思議なくらいお祝いモードで、今まで隠していたことが何だったんだろうと思うくらいだった。ただ一人機嫌が悪い翼を覗いては。「ありがとう、翼。お世話になったわね」主治医は産科に変わったのに、翼は日に1度は顔を出してくれている。そして、こうして交際が公になったからには翼の家に同居するのもおかしいだろうとの公の意見で、私は今引っ越しの準備中。翼はそれが不満らしい。「俺は別に、これからもお世話するけれど」冗談とも本気ともわからない翼の呟き。しかし、そういうわけにもいかない。「その必要
「オイ、しっかりしろ」聞こえてきたのは、翼の声だった。ここは・・・病院で、私は・・・倒れたんだ。赤ちゃんは?「紅羽、大丈夫か?」今度は父の声。私はゆっくりと目をけ、体を起こそうとした。「馬鹿、寝てろ」翼が肩に手を当て、私を止める。「そうだぞ、今はじっとしていなさい」父の言葉にウンウンと翼が頷く。父さんと翼は以前から何度か顔を合わせている。もちろん友達としてで、まさか一緒に暮らしているとは思っていないけれど面識はある。「心配いらないからな。落ち着くまで、もう少し寝ていろ」「うん」翼は優しく言ってくれるけれど、私にはわかった。自分の体だもの。わからないはずがない。今も・・・出血が続いている。「検査だな」「俺が診ますから」救命部長の声に対して、いつになく翼の語気が強い。てきぱきと処置をする翼に部長を含め反対する者はなく、みんな遠巻きに見ている。「とりあえず、師長、救急病棟の部屋を用意してください」「個室でいいですよね」「ええ、かまいません」なぜか翼が答えている。差額ベット代を払うのは私ですがと思ったけれど、今は黙っていよう。「検査は血液検査と、超音波は病室に上がってからにします」「レントゲンは?」「うーん、後でいいです。とにかく、病室に上げてやりましょう」「「はい」」師長の問いに翼が言い切り、救命部長も了承した。本来なら、この状況ではレントゲンが必須だと思う。でも、妊娠初期の私にレントゲンはできない。翼はわかっていて断ってくれたんだ。もしかしたら、部長も師長も気づいたかも知れないけれど、結局みんな黙ってくれた。***入院したのは救急病棟の特別室。朝方まで付き添っていた父さんが帰り、翼と2人になった。「救命部長、きっと気づいた
大学の時の担当教授に『お前、子供は好きか』と聞かれ、『いいえ』と答えた。すると、『じゃあ小児科に行け』と言われ驚いた。『意地悪ですか?』と返すと『違う。子供好きに小児科医は向かない。お前みたいな奴が小児科にはいいんだ』と。なぜだろうと首をかしげると、『小児科は子供が亡くなっていくところを見なくちゃいけない』と言われ納得した。ああ、なるほど。それを聞いて、私は小児科を希望した。「紅羽」「夏美、遅くなってごめん」「さっき亡くなったわ」「そう」やっぱり間に合わなかったか。NICUに入ると、小さなベットを何人もの大人が囲んでいた。「山形先生」唯ちゃんのお母さんが、駆けよって私の手を取った。ゆっくり歩み寄り、見えてきたのはベットの上で眠っている唯ちゃんの、2歳の誕生日を迎えたはずなのにとっても小さな体。いつもは何本もの管でつながれ機械の音がしているのに、今はすべて外されて安らかな顔だ。「お世話になりました」涙を流しお父さんがお礼を言っている。結衣ちゃんを囲む看護師達の目が、みなウルウルとしている。でも、私はここでは泣かない。医者は命を預かるんだ。『患者は医者を頼っているんだから、絶対に泣くな』研修医時代にそう教えられた。だから、私は患者の前では涙を見せない。***ご両親や今まで関わってきた病院スタッフにたっぷり抱っこしてもらった後、唯ちゃんは生まれて初めて病院を出た。私は、寂しさがこみ上げた。たった2年の短い命。病院から出ることもできず、痛いこともいっぱいされて、頑張って生きた人生。唯ちゃんの生きた時間って何だったんだろうと、自分が親になろうとしている今だからこそ思いが募ってしまう。「紅羽、帰るの?」「うん。父さんが車で待っているから」「ふーん」夏美が何か言いたそうにしている。辞令が出た後体調不良でずっと休んでいたから、きっと言いたいことも聞
実家に戻って数日、体調も良くて穏やかに過ごしていた。正直、仕事のことは頭になかった。そんなとき、突然鳴ったスマホの着信。時刻は夜の9時。何だろうと確認すると夏美からの着信で、珍しいなと思いながらすごくイヤな予感がした。「もしもし」「山形先生?」えっ?夏美がこんな呼び方をするのは仕事の時。って事は、誰かが急変?「どうしたの?」幾分自分の声が緊張しているのがわかる。「唯ちゃんが急変した」「嘘」「本当よ。あなた、月末まではこっちの病院に席があるんだったわよね?」「ええ」だったら来なさいと、夏美は言っている。私にも躊躇いはなかった。「少し時間はかかるけれど、向かうから」「ええ、待ってる」今から向かっても間に合うかどうかはわからないけれど、とにかく行こう。夏美からの電話を切ってから、私は身支度を始めた。駅まで行って電車があるか確認して、もしダメならタクシーを拾おう。こんな時間に黙って帰るわけにもいかず、私は両親の部屋をたずねた。「ごめん、受け持ちの患者が急変らしくて、一旦帰るわ」荷物を手に声をかけると、なぜか父が立ち上がった。「送っていく」「でも・・・」「お前車で来ていないんだろう?」それはそうだけれど。「無理したらダメよ。1人の体じゃないんだから」母にも言われ、素直に送ってもらうことにした。***結局父さんの車に乗せられ、家を出た。最初は駅まで行くのかなと思っていたが、車はそのまま高速へ。「駅で電車を探すのに」「この時間じゃあるかわからんだろう」「でも・・・」「いいんだ。着くまで寝てろ」私は、無性に胸が熱くなった。その後も、無言の車内。目を閉じても眠ることはできず、代わり映えのしない車窓を眺めて過ごした。